うつ
人生において、悲しい気持ち、沈んだ気持ち、やるせなさ、淋しさ、絶望感、…etc. などは付き物です。ですから、ただ何か耐えられないほどの辛い出来事があって沈みこんでいる、というだけでは、その人のことを「うつ病」だとは普通言いません。それは確かに気持が沈みこんで非常に憂鬱な状態ではあるけれど、そのこと自体はむしろ、辛い出来事への心の健康的な反応だと考えられるからです。悲しむ作業は人の心にとってとても大切です。
それでは、うつ病とか、抑うつ状態と呼ばれて、治療の対象となるような時は、このようなただ悲しみに沈んでいる状態と、一体、どのように違うのでしょうか。
まず、外から観察できる、または自覚的な症状でも、ある程度客観的に判断できることで考えてみると、例えばそういった状態の長期化など、十分な時間が経ってもその状態から抜け出ることが困難になるような様子や、一時的には良くなったかに見えてもまたしばらくするとぶり返すような反復的な状態(だれでもがある程度納得できるようなきっかけとなるはっきりとしたエピソードがなくても起こりやすくなるなど)が見られることが特徴として挙げられそうです。
また、反復しているような場合は、沈んだ状態と併せて、交互に出てくる形で、逆にちょっと周囲が違和感を感じるくらいに気分が高揚して活動が活発になっているような状態が現れる場合もあります(いわゆる躁鬱病だとか、双極性障害だとか呼ばれる状態です。そうなると、まるで憂鬱な気分をすべて吹き飛ばしてしまったかのように強気になったりします。)。そういう状態では落ち込んでいる時とは反対に、妙に気が大きくなり、普段のその人なら考えられないような大胆な行動に出てしまったり、また、人によっては人柄が変わったように攻撃的になる人もいるようです。そして、次に気分が落ち込む周期に入った時に、元気な時に自分がやってしまったことを思ってまた落ち込みます。
ただし、その程度や症状は様々ですし、また、気分が持続する期間もそれぞれに違います。
病的な場合、気持が沈んでいる状態のときには、睡眠(過睡眠、不眠どちらもあります。不眠の場合、入眠困難、中途覚醒、早朝覚醒などがみられます。)や食欲の異常があったり(減退、亢進どちらもあり、体重の増減が見られます。)、また、自責の念が強くなったり、自分の存在自体が無駄で意味のないものに思えてしまう。そして、「失感情」・「失快楽」と言って、それまでのその人なら感動して心を揺さぶられるような体験(喜びだけでなく、悲しみなども)も無味乾燥に思えたり、何か遠い出来事のように感じられたり、普段なら興味を持って取り組んでいたような活動にも喜びを感じられず、食べ物を食べても砂を噛むような感じで摂食の喜びのようなものが感じられない。何をするにも、ただ億劫感だけに圧倒されてしまったりします。
全体としてみると、心のエネルギーが極端に不足してしまっている状態だとも思われ、周囲の世界との生き生きとした接触の感覚が低下していて、心が自分の中にひきこもってしまっているような感覚(実際には仕事や学校などに通い続けていたとしても)。時間の流れが非常に遅く(または止まってしまっているかのように)感じられるため、現在の苦しみが永遠に続くのではないかという絶望感がつきまとうことも多いようです。こうなると、生きている限り、現在の苦痛や絶望的な状態が永遠につづくような気持になる。また多くの場合、生きていることについての空虚感が強まっていて「何のためにこれ以上生きている必要があるんだろう。」「自分が生きていることに何の意味があるんだろう。」などと思いやすくなることから、自殺の危険が高まります。
このような症状で苦しんでいる時と、ただ、気持が落ち込んで悲しみに沈んでいる時との違いは、大脳生理学の立場からは脳内ホルモンのバランスの崩れとして説明されます。このような場合、そのホルモンのバランスを適正化するために、医療機関で処方された薬を飲むことで、気分が楽になったり、辛い思い込みが少しゆるんだりなどの効果が期待されます。不眠などがある場合は、併せて睡眠導入剤などを処方してもらうことで一緒に日常生活にゆとりを取り戻すことも可能です。
それでは、「脳」ではなく、「心」の中で起こっていることから、上のような状態を説明した場合、どうなるのでしょうか。
人生上で何かとても辛い体験をして、そのためにそれを悲しみ、気分が落ち込むことと、うつ病として、治療が必要になってくる場合とではどのような違いがあるのでしょうか。
ちょっと意外な感じがするかもしれませんが、実はその違いは、ひとことで言うと、「ちゃんと悲しめているかどうか」と言ったことにあるのです。
一般的には、気持が落ち込むということは良くないこと、人生の上で、あまり起こって欲しくないこと、できれば避けたいことだと思われがちです。また、普通、誰でも身近な人がひどく悲しんでいたり、ふさぎこんでいたら、心配になりますし、励まして早く元気にさせてあげたいと感じる。冗談を言って笑わせたり、気を紛らわせられるようにその人が落ち込むような話題を避けて楽しいことに話題を振ったり、そんなにくよくよしなくても大丈夫だよとメッセージを送ったりします。
でも、これも結構多くの人が実は体験しているのではないかと思いますが、自分が落ち込んでいる時、辛い思いを引きずっている時、何か心から悩んでいる時、同時に同じ体験をした人が周囲にいればその辛い体験を分かち合うこともできますが、それが自分ひとりだと感じてしまった時には、せっかくみんなが楽しそうにしている気分に水を差したくないと思って辛い気持ちを誰にも話せなかったりすることが逆に辛い場合があります。誰かに聞いてもらいたくて勇気をもって話してみたら、「気にしすぎだよ。」「大丈夫。大したことじゃないよ。」「忘れちゃった方がいいよ。」などと言われて、それ以上聞いてもらえなかったり。
また、自分でも、暗い奴、悲惨な奴、気の毒な人、可哀想…今風に言えば、イタイい奴などと思われて同情されたり、退かれてしまったらどうしよう?とも思って、最初から気にしていない風を装う。今でも十分みじめだと感じているのに、今以上にみじめになりたくないと思って、まるで自分の辛い体験が自分自身の恥部でもあるかのように、ひた隠しに隠しに隠してしまう。周囲が知っている場合でも、あまり心配を掛けたくないと思ったり、「もっと前向きにならないと」と自分を叱咤して、辛い出来事に封印をしてしまったり、気にしていないふりをして忘れようと努めたりする。
そうしているうちに、自分の心の中の悲しみや怒りを抑えつけて、無かったものにしてしまうようなことが、私たちには割とよく日常的にあるのではないでしょうか。
そして、もともとそのような心の癖が強い人(ひとりで抱え込んでしまいやすい人)が、ある時、学校や職場で虐めに遭ったり、左遷や解雇の憂き目にあったりすると、それをきっかけに、またはそういうことではないけれど、ずっと我慢して頑張ってきて、自分のネガティブな気持ちを感じないように送ってきた人生の積み重ねの中で、ある時限界に達して感情の処理が上手く出来なくなってしまう。「折れて」しまうのです。
そして、そうなっても、そのような人の場合、本来、自分のために悲しんだり怒ったりしなければならないところを、むしろ自分を責め、恥じて、自分で自分を虐めるような気持になる。その人の中では、悲しみや怒りがその本来の生き生きとした姿を変質させて、重く重く心の中に澱のように溜まってしまう。心が活動を停止してしまった状態。…うつ病になった時に、その人の心の中で起きているのは、こんなことのようです。
ですから、カウンセリングではこのような場合、その人が安心して気持を落ち込ませて、その人本来の悲しみを悲しみ怒りを怒ってもいいのだという感覚を育てていってもらうことが重要になります。必要以上に恐れることはないのだということを受け入れられると、それまで抑えていた感情が次第に自然に流れ出すのを感じるなかで、人は同時に喜びや期待などの感情も生き生きと感じられるようになってくるのです。