アダルト・チルドレン of カウンセリングルーム 表参道心理相談室/おもてさんどう カウンセリング オフィス / Omotesando Counseling Office(東京/渋谷)

アダルト・チルドレン(AC =エーシー)

 もともと、アダルトチルドレンという言葉は、「アルコール依存症の親の下で育ったかつての子ども(現在では大人になっている)たち」のことを指す言葉として生まれたそうです(Adult Children of Alchoholocs=ACoA)。
 1970年代の半ば、アルコール依存症者の問題に携わっていたケースワーカーたちが使い始めたのが始まりでした。アルコール依存症者の子どもたちが、成人した後に様々な生きにくさを抱えた大人になり、自分自身が親と同じようなアルコールの問題を持つようになったり、またはそのような伴侶と結ばれたりといった、家族の中でのアルコール問題の世代間連鎖があることにケースワーカーたちが注目して、そのような家庭に育ったかつての子どもたちを指す言葉として使ったのが始まりだということです。

 そして現在では、このACの概念は拡大され、アルコール依存症に限らず、一般に、何らかの原因で“親が親としての機能を果たすことが難しかった家庭(機能不全家族)”で成長して大人になったかつての子どもたち(Adult Children of Disfunctional Family = ACoD)を指すようになりました。

( ACの定義や特徴、歴史などの一般的な情報については、詳しく説明してくれているHPがたくさんありますのでそちらをご参照ください。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%81%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%B3
http://www2.gunmanet.ne.jp/Akagi-kohgen-HP/AC.htm
http://www.ask.or.jp/ac.html


 この言葉の大きな特徴は、医学的な専門用語ではないということにあります。つまり医師などの専門家が外から見て客観的な情報からつける“診断”とは違うということです。そして「自分はACである」と本人が自覚する時に使うことにこそ、この言葉の存在意義があるという風にも言われます。

 それでは、「自分はACである」と本人が自覚するということが、一体どのような意味を持つのでしょうか。

 ときどき耳にする言い回しに「私はACだ。だから私がこんな風になってしまったのはみんな親のせいだ!(もう取り返しがつかない。どうしてくれるんだ?!責任取れ。)」というものがあります。しかし、そのように使ってしまったら、おそらく、この言葉の存在意義は残念ながら地に堕ちてしまう。言っている人の気持ちはよく分かる気がするけれど「惜しい!」という感じ。最初の目の付けどころは悪くなかったんだけど、どこかでちょっとズレてしまったために迷路に迷い込んで、本人自身、出口を見失ってしまっている。とっかかりとしてはいい。ただ、その迷路の中にあまり長く留まっていると、本人も周囲もしまいに疲弊してしまうかもしれない。
 つまり、苦しさは伝わってくるんだけど、なぜか痒い所に手が届いていない、聞いていてもどかしい…本人もたぶん、もどかしさを感じているんじゃないか・・、という感じ。
 もしかすると、その苦しさをもう少し煮詰めてみるといいのかもしれません。

 実は「私はACだ。」と本当に認識するということの本来の意味は、上のように、自分が経てきた体験を、ACという類型に安易に当てはめて、とっとと自分の手元から手放して外に投げ返してしまうことでは、つかめないものではないかと私は思っています。

 これは、決して、「そんな後ろ向きなことを言ってないで前向きに生きましょう。」などという意味合いで言っているのではなく、後ろ向きだろうが、周囲に対するネガティブな感情を吐き出そうが、それを始めたら止まらなくなって一生をかけて吐露し続けようが、そういうことは全く問題がないけれど(というよりもむしろ必要ならどんどんやればいいことだけれど)、ただ、「丸投げしてしまうのではなくて、それをじっくり自分のものとして煮詰めていく作業が重要なんじゃないかな」というような意味で、そのように思うのです。

 どうもうまく言語化できないのですが・・・そう、ACという個性のない一言で安易に片づけてしまったらもったいない、というような感覚ですね、たぶん。自分という、世界にまたとない、ユニークな存在を、もっと大切にした方がいいというような・・。

 機能不全家族の項でもう少し詳しく述べようと思いますが、ある人がACであるということは、その人が子どものころに自分の感覚や感情を自分らしく感じたり表現したりする機会を得にくかったために、自分という一個の人間としての存在に必要な当然の自己像、自己愛、自己評価、自信・・・つまり「かけがいのないこの自分」という感覚を持つことができずに大人になってしまった、というような状態だと私は思っています。
 しかし、そんな状態では、人は普通、そのままでは生きていかれませんから、大抵の場合、借り物の、たとえば親から分離しないままの親と一体化した価値観、世界観をそのまま持っていたり、逆に、それへの反発心のみでとにかく逆に逆に考えるようになったり(これでは結局親の価値観に縛られている)、何かの思想や教義など、とにかく外からの何らかの枠組みを頼りにしたり、世間の外から見たランク付けや価値判断に翻弄されたり、はたまた人間関係や物質などへの依存症になったり、または自分よりも圧倒的に強い(と感じられるような)カリスマ的な存在との一体感に憧れたりすることで自分を支えないといられない、そのような状態になっていることが多いのではないでしょうか。

 そのような人が、「自分はACだ。」と認識するということは、すなわち、子どものころに得られなかった「自分自身の感覚、感情」が実はあるのだということに気づいて、それを取り戻そうとすること、取り戻してもいいのだと、自分に許可することです。
 その自分自身の感覚、感情には、子どもの頃の悲しみや怒りや願いもあるでしょうし、現在の大人の自分の、たとえば妻としての、会社員としてのそれ(自分の感情、感覚)も重なってあるかもしれない。それらを取り戻して、大人になった今、今度は自分自身が表現する“主体”になること・・・今ではそれができる自分であるということを実感すること、・・・これは実はACの最も苦手とすることなのですが(何しろやったことがないので、“主体”になるのが何より実はおっかない)・・・にチャレンジするための最初の決意表明が「自分はACだ。」という言葉なんじゃないか・・・そんな気がする訳です。


 そして、ついでなのでもうひとつ付け足すなら、ACという言葉を誰かが使うと、決まって聞こえてくる世間の反応の代表は「ACだなどと言って、いい大人がいつまでも甘ったれて自分のことを親のせいにしている。ACなんて自分の責任を自分で取れない甘えた人間が使う言葉だ。」というものだと思います。

 しかし、人は、自分自身の、固有で自発的な、感覚、感情を持つことで、初めてひとりの人として自立して、自分の責任において物事を決断したり、欲したりできる能力を手にすることができる。そういう意味では、「自分はACだ。」と認識することは、「無責任な甘え」どころか自分の人生に自分で責任を持って生きるための、最初の一歩になる。そう考えて使うことができれば、この言葉が持つ大切な意味を損なわずにむしろ生かすことができるような気がします。