依存症
依存症とは、アルコール、薬物(違法ドラッグ、処方薬など)、ギャンブル(パチンコなど)、仕事、セックス、恋愛、買い物、人間関係(世話焼き)など、特定の物質や行動、関係に囚われてしまって、止めようと思っても止められず、次第に日常の生活に支障をきたすようになっていく状態のことを指します。
摂食障害も依存症の仲間だという考え方もあり(私もそのように考えています)、また、最近ではPC依存やケータイ依存、ネトゲ依存など、新種の依存症も次々に出て来ているようです。
現在では依存症は医療の対象になり、精神科、神経科、心療内科などに相談し、「治療」する「病気」ということになっていますが、その代表格であるアルコール依存症の歴史を振り返ってみると、現代のように医療の対象になる以前、欧米ではアルコール依存症者は社会風紀を乱し社会に迷惑をかける者として、医療ではなく司法的処遇の対象でした。その後、1930年代くらいから、次第に医療の対象として(単なる不心得や悪習ではなく、治療すべき疾患として)注目されるようになっていき、また、その同じころ、当事者が集まって支え合う自助グループというものが誕生、その後、様々な歴史を経ながら現在に至ります。
心のモンダイはある意味いつでもそうなのですが、特に依存症というモンダイには、身体の疾患のように単純に「病気」と言って括ってしまうと見えなくなる側面がたくさんあるので難しいところがあります(反面、「病気」であると考えることで「治療」の必要や意義を自覚することができるというメリットはもちろんあるのですが)。
なぜ「特に依存症」は難しいのかというと、多くの場合、当人が自分で続けている習慣であり、周囲が止めさせようとしても聞き入れることはまずないし、もし、聞き入れたとしても、大抵の場合、しばらくの中断の後、人目から隠れたり、様々な理屈をつけたりして、また自分で再開してしまうことが多いからです。自ら「治したい」と医療機関につながったとしても、なかなかそこからの道筋は平坦ではない。どんなに痛い目をみて、一方では自分でもなんとか止めようと努力していたとしても、気づけば誰がやらせたわけでもないのに“自分から”繰り返してしまう。周囲からは悲惨な状態になっていても、そのことすら認めようとせずに続ける(曰く「今回はたまたまちょっと魔がさした。」「あいつがあんなことさえ言わなければ止め続けることができたはずだ。」等々…。)
…というか、その行為を止めさえすれば病気でも何でもないのに(いわゆる身体疾患のような意味では)、それを自分で続けていること自体が「病気」な訳です。ですから、普通の身体的な病気のように、病院に行き、治療を受けさえすれば治るというものと比べると、非常にややこしい。「治したい」本人が「治す」気がない・・・いや、気は「ある」んだけど「ない」・・・とにかくとてもパラドキシカルな不思議な病気・・・というか心の状態なのです。だから一筋縄ではいかない。
ともあれ、アルコールや薬物などの物質関連の依存症の場合は、まずは入院などによってある程度強制的に身体の中をクリーンにする期間を作らないことには治療は始りません。そして同時に入院期間を通じて依存症についての勉強のプログラムを受け、止めていくための方法、心構えを教わる。しかし、それだけでは退院して自由の身にさえなればまたいつでも再開できるのが依存症。そのため、ここ(退院)からが本当の治療になります。専門のデイケアや自助グループなどで持続的に自分と向き合うことを通じて、自由になっても、自分で止め続けていく力を身につけることが最終的な目標になるのですが、これは本当に一筋縄ではいかない。最初からすっと止められるようなら、それは多分もともと依存症ではなかったということかもしれない、というくらい、大抵の場合、何度も失敗を繰り返しながら、それでも諦めずに歩き続けた人だけが次第に「回復」に向かっていく・・・という道筋を辿ります。
そして、カウンセリングという関わりが役に立つとすれば、この段階、自助グループやデイケアに繋がりながら自分と向き合う方法を探っている段階で、おつきあいすることは非常に役に立ちます。デイケアや自助グループだけでは解き切れない複雑な心の中のありさま、生き方を再点検して、その人その人に応じた形で考えていく手助けが可能です。そもそも、依存症になったにはなっただけの理由があるのです。それをただやみくもに止めようとしても無理がある。その謎をカウンセラーの手助けを得ながらご自分で解いていくのがカウンセリングです。
恋愛や仕事への依存、摂食障害、また人の世話焼きが止められない共依存などでは、入院などではなく、最初からカウンセリングを始めることができますが、それもやはり、まずは依存状態が続いている時にはまずそれを止めることに最初に取り組みます。依存症にどっぷり浸かっている状態では自分自身と向き合うような作業はまずは不可能なのです。
依存症は、強迫(「脅迫」ではありません)の病だと言われます。別の言い方では、コントロールの病。自己点検の病です。自分が欲望のままに生きてしまって欲望に飲み込まれてしまわないよう、自分の意志の力で欲望を征服し尽くしてしまえる日を、パワフルで自制心に富み、完璧な自分が勝利する日を夢見て、闘いに挑み続けます。今の自分、そのままの情けない自分では駄目なのです。
食欲に負け、アルコールに負け、自分を脅かす高圧的な男性に負けてしまう自分は仮の姿。いつかもっと強くなって、リベンジを果たすこと。その日が来たらきっと、今まで私に失礼な態度をとっていた相手は自分の前で平伏し、今までの不実を心から反省して詫びてくるだろう。自分はもう今の価値のない自分とはまったく別人の、強くて信頼できて、怖いものなどない完璧さを備えることができる。それまでの自分は本当の自分じゃない。今のままの自分ではとても許せない。
…自分自身を常に外側から評価して駄目出しを続けているのが素面の時(アルコールに限らず、依存症の人が依存対象に浸っている時には陶酔感、高揚感の中にいます)の依存症者です。自己嫌悪や強い恥の感覚に葛藤されそうになっています。
もっと強く、優しく、正しく、美しく、賢く、有能で、楽しく、生き生きとして頼もしく、人に嫌な思いをさせることはなく、暗いことは言わず前向きで、朗らかで皆に好かれる完璧な自分になる・・・その日のために今は頑張るのだ。
一般に依存症者は大抵の場合、自分自身でも、周囲からも「意志が弱い」とか「だらしがない」「甘ったれ」などと思われがちですが、それは大変な誤解です。依存症者(「依存症」は、「アディクション」、「嗜癖(しへき)」などという言葉とほぼ同じ意味です)の大部分は、非常にまじめで他人に甘えることがむしろできない「独立独歩の人」、義理人情に篤く困っている人を見ると放っておけない心優しい「いい人」、自分の意志の力を人一倍頼む「意志の人」、曲がったことが大嫌いで正義のためならどんな犠牲も払える「正義の人」が多い。自分に対しては必要以上に厳しく、甘えを許さない、自分に甘えを許したくない人が多い(但し、以上のことは、病気=状態が進行するにつれて段々、「素面(しらふ)の時は」という限定付きになってしまうのですが…)。世間的にもそれなりの地位についていたり、職場や業界などで尊敬を集めていたり、周囲の憧れの的になっていたり、地方の名士だったりすることも少なくないものです。つまり、モンダイは「意志の強さ」ではないのです。
こうやって書きならべたものを見てみると何かこういうタイプの人が多いと言われる他の心の病を思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。・・・そうです。うつ病の人も一般に、まじめで義理堅く、人を頼りにくく、自分に厳しい完璧主義者が多いと言われますね。実は依存症者の中にはかなりの割合でうつ病の人が含まれていると言われています。いわばうつ病のかなり自己流ではなるけれど一時的には有効だった自己治療…それが依存症だったりする。
何かに依存している間は気持が紛れる。気分が高揚する。現実を忘れられる。・・・こんないいものはない。だとしたら手放せなくなるのも道理なのです。ただ、それは結局、その場しのぎの治療法なので、いずれどこかで行き詰る。そして、段々と「こんな筈ではなかった。」「もっと頑張れるはずだ。」「自分は何をやっているんだ。」という焦りと自分や周囲への苛立ちが重くのしかかってきて、そこでまたそれから逃れるために依存対象に手を出してしまうと次第に素面になることがより恐ろしくなる。どこかでその連鎖を断たなければならない。そのまま進んでもその先に出口は無い。出口はその先ではなく違うところにある…そのことに気付いた時、人は自分が変わる道を見つけるチャンスを手にします。
現代は、先進国に暮らす私たちにとっては自由の代価としてとても重いストレスを背負い込まなければならない時代です。人生の選択肢が増え、私たちは限りない可能性が自分の目の前に与えられているような錯覚をもって暮らしている。すべては自分の努力次第。そして人は、美しいもの、正しいこと、より健康で、清潔で、明るく、より豊かなものを追い続け、センスが良くて他人に見せて恥ずかしくない自分を常に意識して磨きあげていかないといけない。現代人は程度の差こそあれみな、強迫観念に常に脅かされています。一方で、強い宗教や政治的な指導者などがおらず、何をやっても自由であるということは、自己自身に対する監視とコントロールを四六時中しなければならないということです。気を抜く暇がない。もうこれでいいという上限も見えない。限りない可能性というのは何という恐ろしいことでしょう(実際には限りはもちろんあるのですが見えにくい)。テレビや雑誌などのメディアを見れば、毎日、新しい情報が溢れていてそれに乗り遅れないようにするだけでも大変。理想的な生活、仕事、生き方、子育て、人間関係についての提案が押し寄せて来て、何を信じたらいいのかもわからない。まともな神経をしていたら、時には耳をふさいで暗い穴の中にひきこもりたくなっても不思議はないのかもしれません。
依存症の増加、多様化と、このような時代の状況は、おそらく無関係ではないでしょう。今の時代に生きている私たちにとっては、それは病気と言うにはあまりにも身近で日常的な感覚、…「息苦しさ(生き苦しさ)」「時代の閉塞感」という言葉の方が、感覚としてはしっくりする人も多いかもしれません。だからと言って、その苦しさが「大したことがない」という意味ではありませんが…。